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ひとつ前のブログで、私はクライアントへの共感を大切にしていると書きました。
なぜ、私は共感を重要視しているのか。
それは、共感のない無神経な言葉に人は大きく傷つき、不信を生むのだという過去の体験からきています。
30代の前半、家業の丸山組で働いていた私は、とにもかくにも父親への不満でいっぱいでした。
もともと関係性の薄い父娘だったところにきて、父は「自分の考えを言葉にする」という習慣のない人だったのでコミュニケーションが難しく、会議や打合せのたびに私は、はっきりしたことを言わない父にストレスが溜まっていました。
従業員から積年の不満(上がらない給与、休日出勤、やらされ感)を聞くたびに、すべては父の至らぬ経営のせいだと思い込み、あらゆる問題を父のせいにしていました。
焦りながらも、目の前でやれることを改善していく私を、父は何も言わず好きにやらせてくれていしたが、明確な指示も助言もない状態に、私はますます不安を掻き立てられていました。
こうして書いていると、なんて不満だらけの我がまま娘だったのかと情けなく思います(苦笑)が、「丸山組を何とかしなければ」という不安と焦燥感に突き動かされていた私は、見えないことだらけで眠れぬ日々が続いていました。
いま思えば、当時の私は「自分が何とかしなければ」という過剰な自負と、「何をすればよいか全く分からない、その能力もない」という自分の不安におぼれそうになっていただけなのです。その証拠に、自分が成長して視野が広がり、少しずつ自信がついてくるにつれて不満も不安も減っていきました。
多くの後継者が通る「通過儀礼」のようなものだったのかもしれません。
ただ、当時はそんなことも分からないし、教えてくれる人もいませんでした。
ただただ溜まっていく不満と混乱を、通っていたビジネススクールの仲間と講師に何くれなく話していました。
その時に、軽く笑い飛ばしながら放たれた講師の一言は、いまも強く記憶に残っています。
「それはお父さんの愛だよ」
なんとも軽い一言で、片付けられてしまいました。父がどういう人間かも知らず、父娘の関係性も聞かず、不安に寄り添うことのない言葉で。
「親の愛」が何かも説明しないまま、ありきたりな言葉で他者の不安を流そうとしたその講師に、私は不信感を持ちました。そして、父娘にまつわる承継について、ここ(ビジネススクール)ではなにも相談しまい、と固く心に決めたのでした。
自分と一緒になって父を責めてほしかったわけではありません。
ただ、焦る気持ちしかない現状に理解を示してもらえたら、それは間違いなく私を支える力となったことでしょう。
やるせない状況に「それは大変なことだろうね」と理解を示してもらえたら。
何もできない私に対して「あなたは一生懸命やっているよ」という励ましの一言があれば。
私はどれほど勇気づけられたことだろう。その記憶がずっと、残っているのです。
共感というたった2文字の深さ。
前のブログにも書いたように、表面的な「それは大変だよね」という言葉が共感を示すのではありません。形だけの共感「的な」言葉は、必死で闘っている人には響きません。
響かないどころか、闘っている人はすでに十分すぎるほどに傷ついているのです。男性も女性も、社会で何かを成し遂げようと必死になっている人は「家を出れば七人の敵あり」ですから。
敵とは言わずとも、思うようにならない現状でもがき、より良い世界を目指し、志高く行動し続ける人は、見えない傷を数多く負っています。
その傷つきを分かっているがゆえに、せめてこれ以上傷つけたくない。
その愛情がなければ、共感は生まれません。
『Compassion 状況にのみこまれずに、本当に必要な変容を導く、「共にいる」力』(ジョアン・ハリファックス著)には、多様な言葉で共感についての説明がなされています。そのひとつを引用します。
共感という能力の本質は、他者の経験に同調し、それを自らに取り入れ、理解し、一体化することです。(第2章 共感)
共感というのは、頭で理解することではありません。自分をオープンにし、他者を感じること。感じ取ろうと歩み寄ること。一歩を踏み出し、一手を差し伸べること。
そうした「行為」が共感を生むと私は考えます。
そうです、共感とは感情でもなく、言葉でもなく、行為なのです。
具体的に、相手に何かをしてあげるだけが行為ではありません。相手の経験を自分に取り入れること、それによって自分の内側に生じた感情を表現すること、相手に届けようという行為。
そうしたひそやかな行動が「共感」です。
他者からまじりけのない共感を得た人間は、共感によって生まれたエネルギーを糧にすることができます。
私がファミリービジネスの支援で大切にしているのは、もちろん共感だけではありませんが、トラストビルダーの姿勢の基盤にあるのは、間違いなく、人間にとってなくてはならない「共感」です。
最後に、私がイメージする共感のあり方を引用して、今日は終わりにします。
おそらく私たちが他者の内側へと入り込むことのできる度合いは、自分が他者を受け入れる度合いを超えることはない、ということです。他者が自分の内側や心のなかに入り込むのを受け容れることで、自分自身がより大きくなり、より徹底的に受け入れるようになった分だけ、他者のなかにも入り込めるようになるのです。
『Compassion 状況にのみこまれずに、本当に必要な変容を導く、「共にいる」力』
(ジョアン・ハリファックス著)