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地元・安城市の市営墓地の片隅に、祖父が建てた慰霊碑があります。そのことは父親から幾度となく聞かされていたのですが、私が意識するようになったのは、丸山組の社長を降りてからのことでした。
私の祖父、丸山照夫は、第二次世界大戦のときサイパン島に出兵し、幸いにも五体満足で帰ってくることができた人でした。
その祖父のサイパンが見たくて、2019年の暮れに3泊4日で現地へ行ってきました。
祖父が見たサイパンと、私が見たサイパンについて、感じたままに書いてみます。
終戦後、サイパンから帰国した祖父は、父親(私の曽祖父)が興した丸山組で働き始めました。
ほどなく丸山組の2代目となった照夫は、50年経ったいまもなお取引が続くような顧客との強い関係をつくり、丸山組の素地を構築しました。
祖父が遺骨収集と慰霊のためにかつて何度もサイパン島を訪れていたと、小さい頃から父は私たちに語っていましたが、小学生の女の子が会ったこともない祖父の戦争話に興味を持つわけもなく、そのことは長いこと記憶の片すみに追いやられていました。
祖父のアルバムを開いたのは、丸山組の社史制作のため古い写真を探す必要に迫られたからです。祖父はカメラ好きだったのか、サイパン訪問時の写真が5冊ほどのアルバムにきれいにおさめられ、やや几帳面な字でキャプションが付けられていました。
直接祖父を知らない私は、これらの説明書きを読んで、祖父という(大げさに言えば歴史上の)人物を、はじめて生身の人間としてとらえることができたのです。
彼が基盤を作った丸山組という会社を私は継いだので、間接的につながっている感覚は少なからずあったと思います。
しかし、肉声を聞いたわけでもなければ、会社に関するメモ書き一つ見たこともありません。そんな私が2代目・照夫の存在を確かに感じることができたのは、このアルバムのおかげです。
これらのキャプションを読んで、祖父がサイパン訪問に込めた想いをひしと感じました。
「サイパンホテルからみる かつての戦場。夕暮れのながめは とても悲しく わたしの心にはうつる。」
「(島民の雨水利用水槽をみて)昭和19年6月、7月は不幸にも雨が少なく この水そうの中には殆んど雨水はなかった。わづかな底水を どろとぼうふらで一ぱいなのを水とうでわかしてのんだものだ」
「この戦いがどんなにみぢめであったかは ここえくると実感として胸にこたえる。何度訪れても・・・海の青さは深く濃くそして悲しく・・・」
「歩くところ みるもの みんな当時を想い出さずにはおれない・・・」
(文中の仮名遣いは全てそのまま)
身近に戦争体験を語る親族はいなかったため、私にとっての「戦争の記憶」は、この祖父にまつわるサイパン島の話とアルバム、そして彼が建てた慰霊碑だけです。
そうだ、サイパンへ行ってみよう。
清々しくそう思ったのは、丸山組のM&Aが無事に完了し、社長を降りた2017年の10月頃。会ったことのない祖父と、対話してみたくなったのです。
お祖父さんはどんな人だったのだろう。
サイパン島で何を見て、何を思ったのだろう。
私は、丸山組を継いで、売却しました。祖父が私のしたことを知ったら、なんて言うだろう。
答えが返ってこない問いを抱えた私は、せめて祖父という人に少しでも近づきたくて、足跡をたどってみようと思ったのです。彼と同じ景色を見ることはできないけど、同じ場所に立って、自分がどう感じるのか。
そんな淡い思いを抱いて、2019年の暮れにサイパン島へ向かいました。
(②に続く)