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丸山組の2代目、私の祖父について、こちらに少し書きました。
祖父が戦後、何度も足を運んだサイパン島へ、2019年の暮れに行った様子を綴ります。
自分はなにを感じるのだろう、と恐る恐る降り立った、夜のサイパン国際空港。思いのほかこじんまりした空港で、私が住んでいる石川県の小松空港と同じくらいの大きさの、とても長閑な国際空港です。
翌朝、ホテル近くの「アメリカン・メモリアルパーク」の資料館へ。
公園自体は、戦後50年を記念してアメリカ政府によって作られました。その後2005年に資料館が建設されたということです。英語と日本語で、戦争前のサイパン島の繁栄から戦争によってどのように変化したのか、終戦後のアメリカによる統治の姿まで、写真パネルや録音の音声で分かりやすく説明されています。
祖父のアルバム以外には特に予習をしてなかったので、翌日の島内観光に向けて、この資料館はとても良い勉強になりました。
その翌日に、戦争にゆかりのある場所を巡る島内観光。南北に22km、東西は9km、小豆島と同じくらいというサイパン島をまわるのには、さほど時間はかかりません。バンザイクリフ、スーサイドクリフ、戦車を残してある指令地の跡、かつて野戦病院があったという泉の湧き出る土地。
全て祖父のアルバムにあった場所ばかりでした。
島内をガイドの車でまわると、道路の至るところからマリアナの海が見えます。
お祖父さんも見たであろう、サンゴ礁の海。
お祖父さんも見たであろう、満天の星空。
バンザイクリフもマッピ岬も、祖父の足跡。
戦った場所、辛かった記憶、死んでいった戦友。そういうものたちが眠る土地に何度も赴くのは、どんな心持ちだったのだろう。
どれだけ思いを馳せても、祖父の気持ちは知り得ない、ということが、強く分かった旅でした。
血がつながった祖父と、サイパンで会話をするつもりでした。
お祖父さんがなにをこの土地に残してきたのか、なにを持って帰りたかったのか。
でも、サイパンで分かったことは、会ったことのない先祖を理解することは永遠にできないという、あっさりした諦めでした。
わたしが知っているのは、祖父が作った丸山組という会社と、一人息子の父親と、祖父が建てた慰霊碑だけ。
つながっていることを感じられたような。
分からないということが実感できたような。
亡くなった人に思いを馳せる、という表現があります。
馳せるとは「遠くまで至らせる」という意味(大辞林より)。
至らせる、とはなんて控えめな、寂しい言葉なんでしょう。
至らせるだけで、決して何かが分かったり、知ったかぶったりできることではないのです。
私が分かるのは、祖父が作った丸山組のことだけ。
だからこそ、それを深く理解して、それを大切にすることが、祖父を理解するということ。
亡くなった祖父と対話するというのは、彼が残したものを深く理解する作業でしかない。
自分の足で祖父が大切にしていたサイパン島へ赴き、今見られるものを見たことで、妙にすっきりしました。大切なのは、自分の中の納得感なのでしょうか。
会えなかった祖父と対話する。
そのきっかけは、間違いなく家業のおかげです。
生きている人との対話は相手の反応に影響されてしまうので、自分の考えに思い巡らす時間を与えませんが、亡くなった人との対話は、存分に自分の胸中で思考することができる。
過去の人との対話は、究極の内省なのかもしれません。
そんな気付きをもたらしてくれたサイパン島を後にして、2019年の終わりと共に帰国の途につきました。