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2020.02.08日-
「知らないということ」を共有する 〜山極・京大総長のお話から〜

去る1月に、京都大学ELP(エグゼクティブ・リーダーシップ・プログラム)の5周年イベントへ参加してきました。約半年間、毎週土曜日に京都大学の橘会館という木造一軒家へ通い、一流の研究者から学ぶプログラムです。私は2018年に通っていました。


余談ですが、近年ビジネスマン向け教養講座や書籍が増えていますね。アート鑑賞、古典、歴史などを分かりやすく説明する類のもの。
京大ELPは、そうした「ビジネスマンなら最低限これくらいの教養は身につけていないと!」ブームとは、少し趣が異なっているように感じます。
やることは、週替わりで教授(ELPのために選ばれた京大の先生方)から講義を受け、受講生同士でディスカッションし、教授に疑問を投げかける、というプロセスです。ここで学ぶのは、知識やノウハウ、一般社会での使い方ではありませんでした。

その学問が追求している真実とは一体どういうものなのか。ものの「ことわり(理)」とはどこから来て、どこへいくのか。自分の頭で考え、言語化し、相手の意見を聞き、またさらに考える。教授が答えを教えてくれるわけでもなく、何かが「分かった!」という達成感もない(泣)。答えのない宇宙を彷徨うような時間でした。
さらには「なぜそれを追求するのか」という一人の研究者の情熱の在りかを探る対話も、京大ELPでは繰り広げられます。これがまた興味深く、人間の好奇心の得体の知れなさを垣間見ることができました。


閑話休題。そんな京大ELPの5周年イベントで聞いた、ゴリラ研究で有名な山極総長のお話から。

ファシリテーションにも通ずる良いお話だったので、記します。

教育とは何か、という内容です。


「教育をする動物は人間だけ(他の動物は能力の差が分からない、狩りの技術等を教えるのは親子間だけ)」と始まり、
「教育の基本は、『知らないということ』を共有し、どうやって知るかというプロセスを共に考えるところにある」と山極先生はおっしゃいました。

教師が知っていることを生徒に教えるのではない。その場にいる人たちが「何を知らないのか」をまず共有し、「じゃあ、どうやって知っていこうか」を考えるプロセス。それが教育だと。
「だから教師と生徒は対等」というのです。

 

私は教育現場に立つ人間ではありませんが、ふーむ、と納得した次第です。
 

これはまさに、私の現場でも同じだなと。
会社でいつも、上司が答えを知ってるわけじゃない。
家庭でも、親が何もかも分かってるわけじゃない。
相手が何を知っていて、何を知らないのか。そして私たちは何を導き出したいのか。
それらの共有こそがコミュニケーションであり、対話の目的であり、物事を前に進める力となる。そこにいる上司/部下 や 親/子供  には上下関係もなく、対等である。対等であればこそ、共に知り合うところから始めることができる。

 

その第一歩が「『知らないということ』の共有」です。

一緒に働いていたり、一緒に暮らしていると、当然知ってるものだと思い込んでしまいます。

または「知っていてほしい」という相手への期待が、無意識に「知ってるよね」に変換されてしまう。


ファシリテーションをしている時に、この「知らないということ」をメンバーに気づいてもらうことが、とば口になることが多くあります。「知らない」を前提にしたコミュニケーションは、混乱を防ぎ、効率の良い時間になります。

会議のはじめに、一人ひとりに「知っていること」を言葉にしてもらうようにして(内容は、その日の議題について今考えていることだったり、今週の嬉しいこと、だったりします)、他のメンバーが「えっ、そんな風に考えていたの?」「そんなことあったの?」を沢山気づいてもらいます。
最初のうちにこれをやっておくと「知らないことが多いなー」と自覚してもらえますし、「言える空気」を作ることで、会議のあとの方になって「今さら、そんなこと言われても」が減ります。


と、格好の良いことを書きましたが、これは理想であって現実はなかなか「知らないこと」を気づいてもらえるのは難しいのですが。


それでも、山極総長のお話から勇気をもらったように感じました。

教育と同じように、自分の現場でも「知らないということ」を机上に出し合うところからはじまって、ファシリテーターである私は、それにどう寄り添えるのか。どうやって「共に知るプロセス」を作ろうか

これもまた、ファシリテーターの大事な役割だと「知った」次第です。


この妙味。
だからファシリテーションはやめられないのです。

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